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みなさん、こんにちは。歯科医師の中村雅英です。みなさんは色々な不安を持たれて歯医者さんに来られていると思います。そこでみなさんに少しでも安心して快適に診療を受けていただけるよう中村雅英という歯科医師がどういう人物なのか少しでも皆様に理解していただくために私の今まで歩んできた道をお話したいと思います。
私は長野県佐久市という浅間山、八ヶ岳、千曲川などの豊かな自然環境に恵まれた人口10万人の小さな地方都市で歯科医師の長男として生まれました。
よく「佐久ってどこにあるの?」と聞かれることがありますが「軽井沢のとなり」というと皆さんにご理解いただけるようです。
<幼小期>
好奇心旺盛でとにかく目立ってやろうとそんなことばかり考えていたように思います。スイミングからスケート、エレクトーン、はたまたバイオリンまで習っていました(笑)。バイオリン発表会での「きらきらぼし」では多くの観衆に感動を与えられました(笑)。なかなかのおっちょこちょいで落ち着きも無くよく先生に怒られていました。
低学年の時人生の中でも大きな出会いとも言われるものに出会いました。それは「野球」です。当時は西武ライオンズが非常に強く、なかでも「清原和博」が大好きで、よく所沢の西武ライオンズ球場に連れて行ってもらったのを覚えています。清原のようになりたい!!と心から思い、自伝を読み、その行動をまねていました。
「牛乳をどんぶり一杯毎日飲んでいた」というのを見て、「よし!牛乳をどんぶりで飲もう!」とチャレンジしたものの次の日におなかを壊してしまったのは言うまでもありません。
「好きなものケーキ、嫌いなもの納豆」というのを見て自分はケーキも納豆も大好きだから清原を越えるプロ野球選手になれるんだ!と勝手に夢を見ておりました。
6年生には生徒会の会長選挙に立候補し、演説で清原のサイン色紙を手に熱く語り、見事当選し「小学校構造改革」にも尽力を果たしました(笑)。
少年野球では野球のことだけでなく、礼儀や道具に対しての思いやり、チームワークの重要性など今となっても非常に役に立っていることを学ばせてもらいました。
<中学、高校時代>
中学に入学してもまったく体が大きくならず、クラスでも小さいほうから数えて2番目でした。野球をしていてもまわりがとても大きく見え、パワーの違いをまざまざと見せつけられ、野球を挫折しかけました。
そんなとき父親の母校で後に自分の母校にもなる「長野県立野沢北高等学校」の野球班の地区大会での試合を見に連れて行ってもらい、文武両道、自由な校風に憧れ、あの日輪のユニフォームを着て甲子園に行きたい!と思うようになり勉学に励みました。
無事合格し、高校に入学すると憧れの野球班に入りました。そこには完全なる縦社会が待っていました。それなりに予測はしていたので苦にはなりませんでしたが、まずは球拾いから始まりました。
普通球拾いというとめんどくさいなぁと思われがちですが、ここでは「球拾い」一つをとっても自分が次に何をしなければならないのか、練習が効率よく運営されるようにどうしたらいいのか、そういうことを考えながら、ただ球拾いするのではなくしっかり意味づけをしながら練習することを徹底的に叩き込まれました。
2年生になると試合に出場させてもらえるようになりましたが思うような結果をなかなか出せませんでした。そこで一つの決断をしました。それまでずっと右打者としてやってきたのをどうせだめなのであれば左打者としてやってみようと思ったのです。ある意味開き直りもありましたが自信もありました。
右投げ左打ちの高校生は滅多にいないし目立つかな・・・(笑)
右利きの人がそれまで右でお箸を持っていたのを左手に持ち替えるようなものです。当然周囲は反対しました。
それからの日々は数え切れないほどバットを振り込みました。
そして初めての試合でいきなり試合で結果を出すことができました。
バットを振ればバットの芯にボールが勝手に当たる感覚に陥ったのです。
「野沢北、中村左転向で大ブレーク」と地方紙に取り上げられました。
鈍足ではあるが器用なプレーが認められ3年生時には「2番サード」のレギュラーを勝ち取りました。
・・・が甲子園地方予選で敗退。
途方に空けていたとき、体内にプログラミングされていた「歯科医師のDNA」がうずきだし突然歯科医師を目指すことに。
高校三年間野球に追われ将来のことなど本当に考えていなかったとき両親から人に感謝されてありがとうと言われる職業はなかなかないよ、といわれ決断したのを覚えています。
<大学時代、研修医時代そして早乙女歯科医院へ>
大学は東京にある日本歯科大学に進学しました。
はじめての都会での生活では慣れないことだらけでした。
特に大変だったのは朝の中央線の満員電車です。あれは今となっても苦しいです(笑)
ちょうど歯科医師国家試験漏洩問題などが騒がれていた時期で国家試験が厳しくなっていくといわれていたため焦って猛勉強したのを覚えています。
このときは国家試験に受かること、また合格した後は技術の向上のためにどうしたらいいかということばかりしか考えておらず、「患者さんのために」という一番大切なことには気づかずただただ勉強していました。
またこの時出会った友人たちは今でも大きな財産です。
大学卒業後、大学病院の臨床研修医として大学に残りました。
今ではこの早乙女歯科医院で勤務医をさせていただいている私も駆け出しの頃は研修医としてお世話になっておりました。
歯科医師免許を取得したばかりの私はどのような歯科医師になりたいか、どのような道を選ぶことがよいのか非常に悩みました。
歯科医師としてのはじめの三年間というのは、その人の歯科医としての方向性が決まるという非常に大切な時期だと言われています。
ところが自分でどうしたらよいのか分からず、中途半端に就職先を決めてしまったら後悔してしまうという思いから大学に残って研修医という道を選びました。
ここで早乙女歯科医院と出会うことになります。
大学で院外研修先の説明会というのがあるのですが、各医院のプレゼンテーションを一つとってみてもその仕事の精度がはっきり伝わってきます。
やはり歯科医師になりたての頃はインプラントや矯正といった治療ではなく「基本的な治療をしっかり身につけること」が第一であると思っていました。
知識と技術に飢えていた私は場所や給料は関係なく自分を高めることができる歯科医院を求めていました。
説明会のとき院長が最後に残して言った言葉「周りには何もないところだから4か月勉強するつもりで来てください。」
この言葉が妙に引っかかった私は早乙女歯科医院を院外研修先に選ぶことにしました。
これは今思うとかなり無謀だったかもしれません。
栃木という全く見知らぬ場所で歯科医師人生のスタートを切るわけですから。
行くまでは不安だらけでした。
「なんでとちぎ??」と周りにも反対されました。
しかし「これだ!と思ったら突っ走る」性格もあり(笑)、「断固たる決意」で栃木に行く決心をしました。
しかし早乙女歯科医院に来てその不安は一掃されました。
CR、インレー形成、根管治療から始まり院長にチェックしていただきクラウンブリッジまで4か月で修得することができました。
そして運よく勤務医の枠に空きがあり、研修終了後もこの早乙女歯科医院に晴れて就職することができました。
まさか栃木県民になっていることなどその一年前までは考えられなかったことです。
それから何年かの月日が経ちましたが、早乙女歯科医院では「基本に忠実」「精度の高い治療」ができ、患者さんも満足して頂ける治療ができることです。
基本の積み重ねが精度の高さにつながり、入念な診査診断、そしてきめ細やかな準備の必要性を常々院長に言われています。
自分はまだまだ至らぬ点もあり注意されることが多々ありますが、院長の診療を見ていると本当に大切なことなんだなぁといつも肝に銘じています。
大学時代に描けなかった個人としての歯科医師としての目標は自らの歯科医療を広めることで地域全体が健康になれる最高のチームワークを持った歯科医院をつくることです。
プロとして患者さんの健康を維持し、見える報酬ではなく見えない報酬に全てを賭ける真のプロフェッショナルを目指してこれからも患者さんのために日々がんばっていきたいと思います。