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[院長略歴]
昭和31年4月16日生
昭和50年3月 栃木県立栃木高等学校卒業
昭和56年3月 日本歯科大学卒業
昭和56年4月 日本歯科大学口腔外科学教室第2講座入局
(助手)
昭和61年3月 日本歯科大学大学院歯学研究科博士課程終了
(歯学博士、口腔外科学専攻)
昭和63年4月 日本歯科大学口腔外科学教室第2講座講師
平成 2年3月 日本歯科大学口腔外科学教室第2講座退職
平成 2年4月 早乙女歯科医院開設
平成 2年4月〜
平成13年3月 日本歯科大学口腔外科学教室第2講座非常勤講師
平成 6年4月〜 栃木県下都賀郡歯科医師会理事
平成12年4月〜 歯科医師臨床研修施設指定(指導医)
平成13年4月〜 日本歯科大学歯学部付属病院総合診療科3非常勤講師
平成15年1月〜 栃木県国民健康保険診療報酬審査委員会委員
平成17年4月〜 日本歯科大学歯学部口腔外科学講座非常勤講師
[所属学会]
●日本口腔外科学会
●日本歯周病学会
●日本口腔インプラント学会
●日本顎咬合学会
[主な研修会受講歴]
平成 9年〜10年 藤本研修会 補綴咬合コース(講師 藤本順平先生)
平成10年〜11年 藤本研修会 LOT(部分矯正コース)(講師 加治初彦・星野亨先生)
平成11年〜12年 藤本研修会 歯周病コース(講師 弘岡秀明先生)
平成12年〜13年 弘岡秀明 歯周学病コース(講師 弘岡秀明先生)
平成12年 ペリオ・インプラントコース(講師 中村社網先生)
平成13年〜14年 藤本研修会 歯内療法コース(講師 宮下裕志先生)
平成13年〜14年 日本歯科先端技術研究所 インプラント 100時間コース
平成14年〜15年 藤本研修会 補綴咬合アドバンスコース(講師 藤本順平先生)
平成17年 ITIマスターコース(講師 勝山英明先生)
[所属スタディグループ]
●ジャーナルクラブ(主催 弘岡秀明先生)
●日本歯科先端技術研究所 関東信越地区学術勉強会
●栃木歯学研究会
●JDPIC(Japanese Dentists Practicing Informed Consent)
幼少期
小学校の頃は、家の中での遊びはほとんどしたことがなく、一日中外で遊んでいました。今でもカルタやトランプといった家の中での遊びは苦手です。
特に栃木県は海がないので、夏休みになると近くの河原で、毎日・毎日それこそ夏休みの間、毎日泳いで遊んでいました。
私の父は、無口で私にとっては結構恐い存在でしたが、当時としてはスポーツマンで学生時代からやっていた剣道と水泳が得意で、県や地区の大会に町の代表としてよく試合に出場していたようです。特に、剣道は熱心にやっていて、試合があると私のことも連れていってくれたので、小学校の頃から、私も剣道に興味がありました。
しかし、当時は小学生の道場や、剣道教室は町にはなかったので、中学に入ってから本格的に剣道を習い始めました。
中学時代
当時、私の入った中学校の剣道部はいわゆる弱小で、大会ではいつも一回戦で負けていました。私の一年上の先輩のお兄さんが高校を卒業して剣道を教えに来たり、私が入って父が教えに来たりということで、少しづつ強くなり3年生になる頃には、地区で1〜2位を争う強いチームになっていました。
私が、2年生の頃から1つ上の先輩と、私の同級生2人が町から15km以上も遠い所にある●●館という道場に通い始め、メキメキ力をつけてきました。又、中学生の大会に行くと、●●館というバッチを左肩につけた選手は皆かっこ良く強く見えました。それをうらやましく思い、父に「僕も●●館に行きたい」と頼みましたが、父は近くに通っている道場があり、そこにも少人数ですが中学生も来ていましたので、父は「そんなに剣道がやりたいなら私の行っている道場に来なさい。そんな遠くまで行く必要はない。」と言い、それから週に2日は父と道場に通うことになりました。
その道場には、厳しい師範の先生が居て、行くと必ず打ち込み稽古をさせられ、道場の端から端までお尻を叩かれながら打ち込みをしたのを覚えています。それが終わると父が技の稽古をしてくれました。その甲斐があってか、3年生の夏の地区大会で個人戦で優勝することが出来ました。団体戦も準優勝というすばらしい結果を出すことが出来ました。
父は私には何も言いませんでしたが、大会が終わった夜、母に「●●館という狭い道場で大人数で稽古するよりは、中学生のような動きが重要なポイントになる剣道では広い道場で稽古した方がいい結果が出るものだ。優勝できて本当に良かった。」と話しているのを聞いて、とても感謝したのを覚えています。
そんな父でしたが、私が大学に入学した昭和50年8月に48才で癌で亡くなりました。父の事で私が誇りに思っていることは、病気で倒れる直前まで、剣道をしていたこと。それから昔、父がお世話をした人と話しをする機会があると、誰もが父の事を、後輩の面倒見がよくて強いリーダーだったと言ってくれることです。
私が今でも剣道を続けているのは、父を乗り越えようという強い意志があるからだと思っています(段位の上では、当時の父を越えていますが、父のような強いリーダーにはなれていません)。

数少ない父とのツーショット
高校時代
私は高校は、地元の栃木県でもトップクラスの進学校に進みましたが、勉強と剣道の両立が結構難しく、中途半端な3年間を過ごしてしまいました。進学校でしたので3年生のクラスは、進路により理系、文系、国立系、私立系というようにクラス分けされます。2年生の冬には、自分の進路を決めなくてはならないのです。それまで私は、文系の方が得意で、小学校の頃から歴史にとても興味があり、特に、インカやアスティカなど中南米の文明に関心がありました。自分では、できれば早稲田大学に入って歴史を勉強してみたいと考えていました。
しかし、その頃は医学部や歯学部がとても人気があり、父は役所勤めだったこともあり、独立して自分でできる仕事が良い、又、親戚に医師か歯科医師も何人かいたのでどちらかに行きなさいという考えでした。
私はけっこう悩んだ結果、父の言う通り医学部か歯学部を受験することに進路を変更しました。3年生の一年間はそれなりに努力し、何とか歯学部に入ることが出来た訳です。
大学時代
大学の6年間は、国家試験の勉強をしなければならない6年生時を除けば、どっぷりと剣道部に浸かった生活でした。
入学して、当然のごとく剣道部に入部した訳ですが、私の大学は単科大学で一学年200人程度しかいませんでしたので、そういう学校の剣道部ですから高校の延長程度にしか考えていませんでしたが、しかし、体育会系のクラブ活動が盛んで、特に武道系のクラブは、一般大学の武道部と同じような気質を持った先輩達
が大勢いました。先輩、後輩の上下関係もかなり厳しいものがありました。
入学してまもなく、昼休みに校舎の中庭で休んでいると、私の近くに丈の長く襟の高い学生服を着た角刈りで髭を生やした眼光の鋭い、初めて見る先輩が、やはり学生服を着て、身長180cmもある角刈りのもう一人の先輩に「先輩、○○○クラブの○○という奴が生意気なこと言ってますが、ちょっとしめましょうか?」「何馬鹿なことゆーてんのや、ええかげんにせーや」と言う、まるでヤクザのような会話を聞いて、何なんだこの人達は、何て恐い人達なんだと思いました。しかし、この人達は、私が入った剣道部の5年生の主将と、4年生の副主将だったのです。その後は言わずとしれた、私も5年間、学生服の生活が始まった訳です。
入学当初は、父の病気のこともあり、家から東京まで通ったり親戚の家に一時下宿をしたりという生活でしたが、夏休みに父が亡くなってからは、当時全校で一番恐いと思われていた、前述の剣道部の髭の副主将の先輩に目をつけて頂き、武道系の学生が住む寮のような安いアパートでの生活を始めました。
そこには、剣道部の先輩をはじめ、空手部、少林寺拳法部などの先輩や同級生がおり、一年中合宿生活のようなものでした。特に剣道部の副主将の先輩とは、剣道部の練習でしごかれアパートに帰っても一緒に生活する訳で、結構大変な生活でした。


大学2年生、春休み中の合宿の打ち上げ
その先輩は、私がその寮(アパート)に入って半年くらいで、大学の近くに引越されましたが、私の緊張は解けませんでした。私のアパートは、大学から電車で40分位のところにありましたが、時々、その先輩から夜中に電話があり、「大学近くの○○という店で飲んでいるから、30分以内に来い。」という急な呼び出しがあるのです。時には、定期試験の最中でも呼び出しの電話があり、私も恐かったので、試験勉強もせずにタクシーを使ってその店に急いで行くという様なこともありました。
しかし、どう言う訳か、翌日の試験では、合格点をとっていました。 この先輩は私に良い面も、悪い面もあらゆることを自分のすべての生活をさらけ出して教えてくれました。そう言う意味では、とても恐い存在でしたが、色々なことを学ばせて頂いたと思っています。
剣道部も強かったので、当時の私は何とかして、いつかはこの先輩を剣道で乗り越えてようと考えていました。父やこの先輩という大きな目標があって、剣道を続けられたのだと思っています。

大学卒業直前師範と同級生
大学院の入学について
大学では6年生の卒業近くになると、卒業した後の進路について考え始めます。
大学に残って勉強しようとする者や、開業医に勤める者と大きく2つに分かれるのですが、私は口腔外科の大学院に進みたいと考えました。
なぜ口腔外科かといえば、当時の口腔外科は、大学の附属病院では口腔外科、保存科(歯の神経の治療をする科)、補綴科(義歯やブリッジの治療をする科)は主要3科と言われ、病院の顔であり、特に口腔外科は当時から全身麻酔下での大きな手術をしたり、入院設備があったり、外来にもピーンと張りつめた緊張感があったり、まったく他の科に比べてかっこ良かったのです。そして、その中でも大学院の学生や、大学院を卒業して先生は超エリートと呼ばれる存在でした。私の先輩でも口腔外科の大学院に入り、白衣をなびかせて病院の中を忙しそうに走りまわっている姿を見るにつけ、大変憧れていました。
しかし、大学院に入るという事は、ある意味でかなり大変だったのです。
大学院の定員は、各科1〜2名ですから全体で15名程度、臨床系の講座では10名くらいしか取りません。私はどうしても大学院に入りたいという強い希望があったので、考えた末に直接、口腔外科の教授に会いに行き、大学院の入学を頼もうとしました。しかし、当時の口腔外科の教授は病院長も兼務しており、普通の教授室ではなく病院長室で執務をしていたのでそこに行かなければなりません。学生の身分の私としては一言も言葉を交わしたことの無い教授と話をするだけでも大変なことなのに、大学院の入学をお願いに行く訳なので、すごく緊張したのを今でもよく覚えています。
「卒業したら口腔外科の大学院に入りたいので、試験を受けさせて下さい。」とお願いしたところ、案の定教授は、「来年の入学はもう決まっているので、申し訳ないが入れる訳にはゆかない。」との答えでした。予想された答えであった訳ですが、結局卒業した年には大学院には入れませんでした。そこで私は、卒業した年は口腔外科の医局には助手として入局し、1年後に大学院の試験を受け1年遅れで大学院に入ることが出来ました。
大学院と医局生活
私の大学は都心の、しかも千代田区という東京の真ん中にある大学でしたので、附属病院にも大変多くの患者様がいらっしゃいました。
口腔外科という科は、抜歯に始まり、口の中の怪我(骨折など)や病変(腫瘍やのう胞)など、又、顎変形症と言っていわゆる受け口の人を矯正治療と手術を組み合わせることにより、治療するケースも沢山ありました。
ほとんど毎日、全身麻酔下の手術があり、ローテーションを組んでも週に1回程度は、全麻の手術に入ることができると言う大変恵まれた環境でした。
毎日、外来の小手術をこなし、週に1回程度は全麻の手術に入ると言う生活でした。
全麻での手術は4〜5年目までは、アシスタントが主ですが、大学院を卒業した頃からは先輩の指導のもと、執刀医として手術をさせて貰いました。顎骨の骨折や良性腫瘍摘出、顎骨を人工的切断して受け口を直す手術など何例も行うことが出来ました。
又、口腔癌の手術も行っていましたので、執刀医は助教授クラスの先生ですが、第1、第2アシスタントとして、大きな手術にも携わる機会が何度もありました。
この経験は、今の私の臨床、特にインプラントや歯周外科の手術を行う際に本当に役に立っています。
よく言われるのが、大学病院では設備の整ったオペ室でチームを組んで手術をしますので、もし、自分がミスをしても誰かが助けてくれます。しかし、私たちの様な個人の開業歯科医院では、自分1人、アシスタントはせいぜい勤務のドクター1人か、歯科衛生士です。
ですから、大学で出来た手術と同じ程度に大きな難しい手術は出来ないのが通常です。
しかし、大学病院でどこまでの手術経験があるかによって、個人医院で出来るレベルも変わってくるようです。勿論、口腔外科の経験のない先生も開業してからの勉強により、インプラントや歯周外科の手術を沢山行っている方もいらっしゃいますが・・・・
私にとっては、大学病院で修得した外科手術の基礎(基本)は、私の現在の臨床の上でなくてはならないものとなっています。
又、大学院では、卒業するためには(=歯学博士になるためには)研究論文を一つ仕上げなければなりません。私の場合は臨床に直結したテーマでは4年間では時間的な余裕がないとの事で、基礎系に近い科、歯科放射線科の教授のもとで研究論文を作ると言う事になりました。
この教授は、歯科インプラントとレーザー治療を研究テーマにしていたため、私の論文はインプラントと言う事になりました。20年前で、当時はまだ日本では現在のようなタイプのインプラントが出て来る直前で、色々な素材がインプラント材として試みられておりました。今でも少し使われてますが、ヒドロキシ・アパタイトをインプラント材として使用し、インプラントの周りにどのくらい骨が出来るかと言うのが私のテーマで、放射線的な観察をするということで、放射性同位元素を使った核医学の分野の研究と言う事になり、来る日も来る日も地下のラジオアイソトープ室と言う所でラットの顎に小さなインプラントを埋入したり、ラットにラジオアイソトープを注射したり、ラットを屠殺して研磨切片を作ったりと言う生活でした。最後の1年間は臨床は抜けさせて頂き、研究だけの生活でしたが、3年目位までは昼間は外来やOpe室での仕事をし、夕方から夜にかけて研究をするという日課でした。

大学院の医局で
そんな甲斐があり、何とか自分の論文ができ、大学院を卒業、歯学博士の学位授与して頂いた時は、とてもうれしかったのを覚えています。今考えると、私の論文などは大したものではなく、人にみせるのも恥ずかしいものですが、大学院生活で学んだ論文の読み方や勉強の仕方は、大変貴重な経験であり、今でも役に立っていると思います。
大学病院、口腔外科での生活でもう一つ重要なことは、人間の生死に関わる仕事に一時期でも携わることが出来たことです。しかも、そういう状況ではいやが上にも猛烈に勉強しなければならないと言う事です。
大学院を卒業した直後に私は、病棟担当医として、入院患者を担当する仕事につきました。口腔外科では、口腔癌などの全身的疾病に関わる患者様も扱っておりましたので、その当時は口腔外科のドクターの他に、内科、外科のドクターも一緒になってチームを組み入院患者を診るシステムでした。その中に、私より4〜5年上の内科のドクターがおり、彼は私の歯科大学を卒業した後、医学部に入り直して医師になった人でした。
この先生は、患者を前にした時の勉強の仕方が、私たち歯科医とはまったく違いました。
徹夜をしても患者のために出来ることは勉強して(調べて)対応すると言う姿勢を持っている人でした。医師としては、当たり前なのかもしれませんが、その時は私たち歯科医がいかに甘えた勉強をしていたのかと言う事を痛切に感じました。
口腔癌の患者様も扱っておりましたので、予後が悪く亡くなられる方もいらっしゃいました。こういう場合も医師の先生方と協力して対応するわけですが、亡くなられる方を看取ると言う経験も本当に役立っています。そして、これらの事から学んだ事は、私たち歯科医も患者様の体を傷つけて仕事をしている以上、直接生死には関係しなくとも、しっかり勉強をしなければならないと言う事です。


大学病院、ope室で
師について
私には「師」と仰ぐ先生が二人います。
一人は、大学時代に私たちの大学の剣道部の師範をして頂いた剣道範士八段の後藤清光先生という方です。もう一人は、歯科医師として「師」と考えている、銀座で医院を開業し横浜で藤本研修会という勉強会を主催している藤本順平先生です。藤本先生は歯科医師としての考え方や姿勢を本当に教えてくださった方であります。
2人の先生にとってはご迷惑かもしれませんが、私はこのお2人の先生を心から尊敬しています。
剣道の後藤清光先生は、私が大学2年生になった時に師範として指導をしてくださることになりました。赴任された時、35才という若さで、皇宮警察で現役の選手をしりぞいたばかりでした。大学の6年間は、週に1回稽古をして頂き、又、土曜日は皇宮警察の済寧館という道場でも稽古させて頂きました。卒業後は、年に1回程度OB会の時に稽古をお願いする程度ですが先生の、その剣道は専門家ですら誰もが素晴らしいと認めるものです。
先生は50才位で八段を取得され、警察大学校の剣道理論という科の教授になられ、今は退官されて郷里の大分県にお住いですが、全剣連のお仕事もされております。又、平成16年の東西対抗戦には西軍の大将を務めていらっしゃいます。
この先生は私たちに個人的には、具体的にどうしなさいという助言を一言も言われません。私は学生の時に一度だけ試合が終わった後に、「相手から目を離している。チームの主将としてはよくない態度だ。」と叱られたことがありますが、その一度だけです。
卒業してから一度、「先生、攻めると言うのはどういう事ですか。」と質問した時も「難しいですね。自分が攻めていると思っても相手が攻められていないと感じれば攻めた事にはならないし、形に表れない事だから稽古をつんで悟るものですね。」と言う返事でした。この先生の剣道は本当に素晴らしいものですが、それにも増して人間的に素晴らしい方であります。派手なことは全くなく、穏やかな物腰や立居振舞は本当に日本人の心を持った紳士であると思います。
「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」という剣道の理念がありますが、この先生はまさにそれを実践している方であります。
私は七段の昇段審査に合格し、先生に報告をした後、先生から「七段合格おめでとう。早乙女君が努力した結果です。」というお祝いの手紙を頂いた時は、常に気にとめて頂いていたのだと言う事が感じられ、涙が出るほどうれしかったです。

後藤先生が8段選抜戦(明治村大会)に出場された時応援に行って
剣道の技術も、人間的にもこの先生の様になることはかなり難しく、その段階まで到達することはできないと思いますが、私の剣道の、そして人としての目標の方であります。
藤本順平先生との出会いは、私が40才になってからです。私は大学の口腔外科を退職してすぐに、ここで開業してしまいました。歯科の開業医の仕事というのは皆同じだろうと言うくらいにしか考えていませんでしたので開業する所も、開業のスタイルも考えることなく、実家に戻るという様な感覚で開業してしまったのです。開業して少しして医院も落ち着いた頃、私の患者様には歯周病とう蝕で、口の中がガタガタになっていたり、歯が何本も無くなって奥歯の咬み合わせが無くなっている人が多く、全歯にわたる治療が必要な方が多い事に気付きました。つまりトータルで口の中を改善しなければならない患者様が多いということです。
それには今までの知識と技術ではとうてい不十分で、特に歯周病と補綴・咬合といった分野の専門的な知識が必要だと言う事を感じ始めました。歯周病については治療方法はある程度独学でも学べるし、手術が必要な場合は私の得意分野ですから何とか行う事が出来ましたが、補綴・咬合という分野では1本の冠や3本位のブリッジを作るには、通常の知識・技術で何とかなっても、大きな装置になると辺縁の適合が悪かったり、形が悪かったり、咬合(かみ合わせ)が巧くいかなかったりという問題が出てきました。このままではいけないという思いが強く、色々と調べた結果、横浜の藤本研修会で勉強するのが良いと言う事になり、平成9年に初めて補綴・咬合コースを受講する事になりました。
補綴・咬合コースでは、クオリティの高い補綴治療のためには、「精度」「咬合の安定」、「術後の管理」という観点から研修を受けました。
それまでの私の臨床とはまったく異なり、歯科医師として行うべき本当の歯科医療とはこういうものなのかと言う事がやっと判ったのが、この研修会においてです。
又、藤本先生は一度開業してからアメリカに留学し、インディアナ大学の大学院を終了しその後、フロリダ大学で教授もされた方で日本の現状の歯科医療のあり方や歯学教育などに非常に疑問をもっており何とか改善しょうとしておられ、その一つがこの研修会です。又、先生は人間的にも素晴らしく、後藤清光先生とは違ったタイプの品格やリーダーシップを持った方であり、この研修会では歯科の知識や技術だけではなく歯科医師として、「どうすれば自らの使命を正しく全うする事ができるのか。」と言う事を学ばさせて頂きました。

藤本先生と、
コース終了証を授与される
その後、この研修会では部分矯正、歯周病、歯内療法、補綴・咬合アドバンスコースとすべてのコースを受講させて頂きました。
歯科医と剣道
剣道に関しては、大学時代の数年間稽古を離れた時期がありますが、中学入学12才から現在まで継続して参りました。
特に大学で剣道を専門に学んだ訳でもなく、警察官や教員でもない私が現在教士七段を頂いて剣道をしていられるのは、ずーっと継続して続けて来たからだと思います。
私のモットーである「継続は力なり」を実践して来た結果であると思います。少しづつでも良いから、少しの努力をもって休まずに続けるということの大切さかとも考えます。
もう一つ剣道から学んだ事は、目標を達成するための集中力です。私は37才で剣道六段に合格した時に、七段は45才前にとるという目標を立てました。
六段から七段までは6年後でないと受験する資格がありません。つまり、43才にならないと七段を受験することが出来ず、45才前ということは1年間の有余しかなかった訳です。又、七段は全国審査ですので、受験できるのは年に3回です。自分なりにその6年間を七段に合格するためには、どういう剣道をすれば良いかということを考えながら稽古をしたつもりですが、最も有効だったのは休まずに続けたことと、もう一つは受験が始まってから合格するまでの一年間の集中力だったと思います。
私は七段の受験を始めてから、丁度1年目、4回目の審査で合格したのですが、この1年間は死にものぐるいで稽古をしました。勿論、日々の歯科の仕事は患者様のためには一生懸命行ったつもりですが、診療が終わってからの稽古は週に4〜5回は行い、日曜日は宇都宮の道場や、遠くは東京目黒に大学の先輩の通う道場がありましたので、その道場にも頻繁に通いました。3回目までの審査ではなんとか相手から1本取りたくて仕方がなくこちらから打ち込んでいって結局入らないで終了するという事で不合格でしたが、4回目の審査はまったく違いました。審査を受ける1カ月ほど前から体が考えることなく自由に動いてくれるのを自覚しました。そして剣道で一番良いとされる、攻めておいて自分では先に打たず、相手がこちらの攻めにこらえきれなくなって出て来たところを打つ、という剣道が出来るようになっていたのです。そう言う事で、準備は万全でしたので、審査会場に行ってもそれまでの3回とはまったく違う落ち着いた気持ち、つまり「平常心」で望むことが出来き、自分で思った通りの立ち会いができ、目標の44才で合格することができました。
あの1年間を1つの目標のために集中することができた事は私の人生にとって大変有意義なものでありました。
歯科医師としての仕事においては、藤本先生に師事してからは、とにかくできるだけ質の高い治療、精度の高い治療をしようという考えに変わりました。たとえば、発展途上国のような所で治療をするのであれば別ですが、今の日本においてはどこで開業していても患者様のレベルは同じであると思いますのであらゆる部分において、自分のできる限りの精度の高い治療をすることが歯科医師としての努めであり、かつ、より精度の高い治療ができるように努力を続けることも必要であろうと考えます。
これは私たち歯科医師だけではなく、歯科衛生士や歯科技工士も同じことであり、早乙女歯科医院というチームが全体として実力をアップすることに向って日々努力を続けなければならないと考えています。そのトップに立ってチームを索引するのが院長である私の役目と考えています。
例をあげれば、補綴治療時の印象のとり方、咬合採得の仕方、技工所について、インプラント治療における診査診断、手術について、顕微鏡を用いた歯内療法について等、最良の対応をしているものと自負しております。
歯科診療と日々の勉強ということを考えますと、剣道の稽古をしている時間は相反し、歯科医としてはマイナスになっているのではないか、両方を行うことはどちらも中途半端なものに終わってしまうのではないかと考えたこともありましたが、しかし現在は、剣道で悟った信念を持って、質の高い歯科治療を全うすることが私の使命であると考えるようになりました。